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平和を願う!自らの戦争体験を語り継ぐ台湾人老爺・蕭錦文さん

By 2019-04-10 No Comments

平成の御代がまもなく終わり、令和の新時代が目前に迫っている。戦後、70年以上の月日が経ったが、この間、幸いにも日本は「平和」を享受することができた。

その一方で、先の戦争はすでに遠い過去の出来事となり、戦争そのものに想像をめぐらすことが困難になっている。戦争体験者は続々と鬼籍に入り、今やその実体験をうかがえる機会も多くない。

しかし、そんな厳しい現実の中、今日まで自らの戦争体験を台湾で語り継いでいる老爺がいる。93歳の誕生日を迎えたばかりの蕭錦文(しょう・きんぶん)さんだ。

死の瀬戸際を幾度と見たビルマでの戦争体験

1926(大正15)年に日本統治下の台湾で生まれた蕭錦文さんは、台湾北西部の苗栗に暮らす祖母のもとで「愛国」少年として成長した。そして、16歳の時に祖母には内緒で陸軍に志願した。

高倍率の中、2度目の志願で採用され、1942(昭和17)年に高雄の港から「はわい丸」に乗船。陥落直後のシンガポールで約3ヶ月の軍事訓練を受けた後、ビルマ方面軍司令部へ配属された。そして、疫病や餓死が原因で多くの戦死者を出した、史上最悪の作戦とも評される「インパール作戦」に参加した。

画像の出典:Wikipedia

蕭さんはインパール作戦について「あれはやるべき作戦ではなかった」と断言する。その作戦の実態について、当時、日本は空軍による支援がない状態であり、肉弾で敵軍に突入することしかできなかったと語る。敵は破竹の勢いで機銃掃射の攻撃を続け、日本は防戦一方だった。昼間は敵に見つかるため、身を潜め続けなければならず、夜中のみ行動ができた。補給線は絶たれているので当然、食料も水もない。しかし、逃げることだけで精一杯だったため、食べるどころではなかった。

蕭さんはビルマから撤退中、牛が踏んでできた水溜りの雨水を飲んで赤痢とマラリアに罹った。前線の野戦病院で診察後、鉄道でバンコクの陸軍病院に後送されたが、病床がなく、さらにプノンペンの兵団病院に後送された。そしてプノンペンの地で天皇陛下の玉音放送を聴いた。

日本の敗戦を知った蕭さんは3つのことを考えたという。一つは、残念で悔しいということ。一つは、これで戦争が終わったということ。そして、もう一つが、願わくばこれ以降、戦争がないようにということだった。

日本語ボランティア解説員として

戦後の台湾において、今日まで深い傷跡を残している二二八事件の受難者でもある蕭さんは、1997年2月28日に開館した台北二二八紀念館で、開館時からボランティア解説員を務めた。そして、しばらくして総統府が市民に開放されるようになると、自ら手を挙げて総統府のボランティア解説員も兼任するようになった。「若い世代に自分の経験を伝えたい。専らそういう気持ちでボランティアに志願した」という。土日を除いて、平日は朝から晩までほとんど毎日、2つの場所でその役を担った。

特に日本人観光客を担当することが多かった蕭さん。実際にかつて案内をした日本人は数え切れないほど多い。親しくなった日本人の氏名と住所は自分のコンピューターで管理し、多い時には2000枚以上の年賀状を出していたこともあるそうだ。

案内する際は必ず自らの戦争体験も紹介するよう心がけていた。それは、戦争の「悲しさ」と「あさましさ」が身に沁みており、数少ない前線で戦った生き残りとして、戦争を知らない世代に語り継ぐことが自らの「義務」だと考えていたからであった。

平和を願い、今日も語る

数年前に両脚を手術し、歩行が困難になってしまった蕭さんは、約20年間続けた2つのボランティア解説員を引退した。しかし、「せめて片脚だけでも動けば杖をついてでも行きたい」と、現在も気力は一切衰えていない。そして、最近も日本から修学旅行で台湾を訪れた高校生を前に、戦争体験や台湾の歴史を話すなど、語り部として現役である。

「戦争はあってはならない」、「殺し合いで物事は解決できない」と繰り返し語る蕭さん。自らの戦争体験を語り継ぐことで、戦争のない平和な世界の実現を願っている。


作者:権田猛資(ごんだたけし)
権田猛資(ごんだたけし)1990年生まれ。拓殖大学国際学部卒業。大学卒業後、中山大学華語教学中心(高雄)での語学留学を経て国立政治大学東亜研究所修士課程に進学。2015年のバシー海峡戦没者慰霊祭で運営ボランティアスタッフを務め、2016年より同慰霊祭実行委員。また2016年より廣枝音右衛門氏慰霊祭事務局スタッフ。

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