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廣枝音右衛門氏慰霊祭〜受け継がれる日台「仁義」のバトン〜

日本と台湾が半世紀にわたり共有した歴史。決して短くはない時間に紡がれた日本人と台湾人の絆は、今日の日台関係をしっかりと支えている。

台湾北西部に位置する苗栗(びょうりつ)で、毎年9月に行なわれる「廣枝音右衛門氏慰霊祭」は、先人達が紡いできた絆を今なお育くみ続ける日台交流秘話の現場となっている。

廣枝音右衛門とは

廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)は、台湾北西部の苗栗で祀られている日本人警部である。

1905(明治38)年12月23日、神奈川県足柄下郡(現・小田原市)片浦村に生まれた廣枝は、1930(昭和5)年、高倍率の警察官試験に合格し、台湾総督府巡査として日本統治下の台湾に渡った。台湾総督府警察官及び司獄官練習所乙科で学んだ後、新竹州巡査として竹南郡で勤務、1936(昭和11)年に巡査部長に昇進した。1937(昭和12)年に支那事変が勃発すると、当時、警部練習生だった廣枝も9月に召集され、陸軍運輸部基隆第二二碇泊場司令部付として軍務についた。翌年3月に召集解除となり、その後、警部補に任官、そして、太平洋戦争真っ只中の1942(昭和17)年、新竹州警部に昇進した。

日本軍が戦線を拡大し、兵の増員が必要になると、台湾でも志願兵制度が実施されるようになった。そして、1943(昭和18)年、台湾人青年で構成する海軍巡査隊が結成され、その大隊長に廣枝が抜擢された。

台湾人部下達の命を救った廣枝

1943(昭和18)年12月8日、廣枝率いる海軍巡査隊は高雄港から特務艦「武昌丸」に乗船しフィリピン・マニラに向かった。

南方の戦況は徐々に悪化し、1945(昭和20)年1月9日には、米軍がルソン島へ上陸を果たす。そして同年2月3日、遂にマニラ市街に突入された。追い詰められた日本軍は圧倒的劣勢の中、最後の抗戦を余儀なくされたが、敵戦車に体当たりして玉砕するほかなかった。

激しい戦闘が続くマニラ市街において、廣枝の部隊にも突撃命令が下されたが、廣枝が隊員に対し突撃を命じることはなかった。そして、米軍の砲撃によって日本軍の要塞が陥落し、逃げ場を失って誰もが死を覚悟した2月23日、廣枝は台湾人の部下達に以下の言葉を遺したという。

「お前達は台湾から来た者だ。家には妻子父母兄弟が待っているだろう。連れて帰れないのが残念だが、お前達だけでも、生けるところまで行け。俺は日本人だから責任はこの隊長が持つ」(渡邊崇之「マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン」より)

最後の言葉を告げた廣枝は、壕の中に入り、所持していた拳銃で頭を打ち抜き自決した。享年40歳であった。

廣枝音右衛門氏慰霊祭のはじまり

投降し、無事に台湾へ帰還した部下達は、突撃命令を下さず、自らの死をもって部下達を守った廣枝を戦後も慕い続けていた。そして、その恩義に報いようと、廣枝を祀る廟の建設を企図する。しかし、当時は国民党一党独裁の時代であり、戒厳令下の台湾でそれを実現することは不可能であった。

それでも部下達は厳しい制約の中、親しくしていた苗栗・獅頭山の勧化堂に依頼し、廣枝を永代仏として合祀し、供養してもらうこととなった。そして廣枝の死から31年が経った1976年9月26日、勧化堂において英魂安置式が斎行され、以来、毎年9月26日には部下達によって慰霊祭が続けられるようになったのである。

かつて廣枝大隊長の下で小隊長を務めた故・劉維添氏もまた、廣枝への報恩謝徳の気持ちを生涯にわたって忘れることはなかった。かつての部下達が続々と鬼籍に入り、2007年の慰霊祭では遂に劉氏一人だけとなったが、その後2013年9月21日の慰霊祭当日に逝去されるまで、慰霊祭が途絶えることはなかった。

〈勧化堂には廣枝の位牌が安置されている〉

劉氏からバトンを受け取った日本人

最後の生存者であった劉氏が逝去し、廣枝の部下は誰一人いなくなってしまったが、現在も慰霊祭は続いている。生前に劉氏と親交のあった渡邊崇之さんによってその遺志が受け継がれたのだ。

渡邊さんが劉氏に初めて出会ったのは2008年のこと。劉氏とともに勧化堂に安置された廣枝の位牌を訪ねた際、劉氏はかつての大隊長に「ひろえ隊長!本日はわざわざ臺北より渡邊さんがお越しになられました」と背筋を伸ばして報告したという。その時、渡邊さんは、廣枝から劉氏へと続く延長線上に自分がいることを実感し、仁義で結ばれた「縦の連なり」に自然と背筋が伸びたと振り返っている。

〈劉氏からバトンを受け継いだ渡邊崇之さん〉

慰霊祭の今

廣枝と劉氏の繋がりを前にして、「仁義」のバトンを受け継ぐことを誓った渡邊さんは、2009年の慰霊祭からは有志の日本人と台湾人とともに台北から勧化堂を訪れるツアーを企画している。当初は小さなワゴン車だったが、慰霊祭の存在が徐々に知られるようになり、現在は40人乗りの大型バスが使用されるようになっている。昨年も9月22日に43回目となる慰霊祭が斎行され、20代から80代まで総勢32名が参列した。

慰霊祭を続けているのは「決して『ボランティア』という感覚ではない」と語る渡邊さんは、劉氏から託されたバトンをしっかり握り、今年も9月22日(日)に慰霊祭を斎行する。

言うまでもなく、廣枝をはじめ、劉氏ら廣枝を慕った部下達から直接お話をうかがうことはできない。しかし、一年に一度行なわれる慰霊祭で手を合わせることによって、先人達の仁義で結ばれた繋がりに想像を巡らせられる。日台交流秘話の現場に多くの方に足を運んでいただきたい。

廣枝音右衛門氏慰霊祭FBページ:https://www.facebook.com/hiroedaireisai/

参考文献

・小松延秀(1989)『義愛公と私』台湾友好親善協会

・名越二荒之助、草開省三編著(1996)『台湾と日本・交流秘話』許國雄監修,展転社

・渡邊崇之「マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン」(2014年7月7日)

・渡邊崇之「遵法主義を超えた博愛精神(マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン続編)」(2014年7月8日)

・渡邊崇之「ああ!劉維添先生逝く」(2014年8月8日)

・片倉佳史「台湾人青年たちの命を救った日本人警部の物語」(2016年9月1日、な〜るほどザ台湾9月号)


作者:権田猛資(ごんだたけし)
権田猛資(ごんだたけし)1990年生まれ。拓殖大学国際学部卒業。大学卒業後、中山大学華語教学中心(高雄)での語学留学を経て国立政治大学東亜研究所修士課程に進学。2015年のバシー海峡戦没者慰霊祭で運営ボランティアスタッフを務め、2016年より同慰霊祭実行委員。また2016年より廣枝音右衛門氏慰霊祭事務局スタッフ。

One Comment

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    日本與台灣在歷史的洪流中,共存了50年的記憶。撇開戰爭下的許多殘酷與無奈,在這不算短的時間裡,有許多台日之間令人動容的人、事、物發生。透過権田猛資的系列報導,讓我們有幸可以了解到這些鮮為人知的「人物逸話」。相信,經過了百年、以及更長久的未來,只要這些故事持續的被傳頌,台日之間的友好情誼就能源遠流長。
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    以下翻譯並彙整権田猛資的文章:

    廣枝音右衛門氏慰霊祭〜傳承日台「仁義」の接力棒~

    在苗栗的獅頭山勸化堂,每年九月都有一群台灣人及日本人集結於此,舉辦「廣枝音右衛門氏慰霊祭」。廣枝音右衛門氏是日治台灣時期派駐在新竹州竹南郡的警官。他在太平洋戰爭末期,以自身性命換得眾多台灣青年存活,許多感恩在心的部下們因此於勸化堂立牌位常年奉祀。

    廣枝音右衛門在1930年25歲時,通過了警察官考試,隨後即派任至台灣總督府警察署新竹州竹南郡從基層警員(巡査)開始執勤。其後一路升官,1942年晉升至新竹州警部(警察署課長)。1943年由於太平洋戰爭戰線擴大,急需兵力的增援,因此也在台灣募集志願兵。(備註:日治時期,1942-1945年台灣軍司令部開始實施募兵制度,規定只要年滿17歲、沒有重大前科、符合標準體格的台灣男子,均可接受申請。由於日本在1936年開始推行皇民化教育,所以當時從小受日本教育的年輕男子很多都志在能為國家出一份力。)

    由廣枝擔任大隊長,率領由台灣青年所組成的海軍巡查隊,於1943年12月8日從高雄港出發,搭乘特務艦「武昌丸」號,前往菲律賓馬尼拉。南方的戰況日漸陷入膠著,1945年1月9日美軍從呂宋島登陸,同年打入馬尼拉市街。

    日本軍當時已經節節敗退、頹勢難以反轉。當時上級長官指示部隊執行最後的突擊攻擊與不惜全員玉碎的命令。而廣枝當時卻對台灣人的部下這麼說:「你們都是從台灣過來的台灣人,家中還有妻小父母兄弟在等著你們回去。雖然很遺憾我無法跟你們一起返家,但你們一定要堅持、務必活下來。我是日本人,所以所有的責任由身為隊長的我來承擔。」講完最後的遺言後,廣枝就進到了戰壕中舉槍自盡了,享年40歲。

    失去主帥的台灣人士兵向美軍投降後,平安地返回台灣。對於當時未下達突擊命令,而以自己的死保全部下性命的廣枝感念萬分。為了報答他的恩義,而有了興建廟來奉祀廣枝的想法。但是,戰後當時,台灣處於戒嚴時期,在國民黨一黨獨裁下幾乎不可能實現。但部下們還是想盡辦法,在嚴格的戒嚴制約中,找到了苗栗的獅頭山勸化堂願意常年合祀廣枝的牌位。

    在廣枝死後31年,1976年9月26日於正式於勸化堂舉行英魂安置儀式,此後的每年9月26日部下們將會集結與此感念廣枝大隊長的義行。

    當時參與此戰事的部下們,一個一個接著離世,2007年舉辦慰靈祭時,僅剩下當時在軍中擔任小隊長的故 劉維添先生。直到2013年9月21日劉維添先生辭世前,每年的慰靈祭都不曾中斷。

    最後的生存者劉維添過世後,廣枝的部下已經無人在世了。但現在每年慰靈祭還是持續的在進行。一切都要歸功於劉維添生前的好友「渡邊崇之」先生。渡邊先生受到劉維添遺志的感召,對於廣枝音右衛門與部下們之間跨越生死的「仁義」之情深受感動。

    渡邊先生與劉維添是在2008年相識,當時劉維添邀請渡邊先生一起到安置廣枝牌位的勸化堂,劉維添習慣的像昔日的大隊長立正行禮報告:「HIROE隊長,今日有一位渡邊先生特地從台北過來向您致敬!」

    渡邊先生說:我彷彿感受到遙遠的一方站著廣枝,然後劉維添站在我的前方,而這延長線的一端則是我,因著「仁義」所緊密相繫的「縱隊」,讓我不自覺的挺直背脊向廣枝的牌位回禮。

    渡邊先生自2009年的慰靈祭開始,每年都企劃從台北到勸化堂的遊程,帶領有志的日本人與台灣人前往弔念廣枝。剛開始只是九人座的休旅車,隨著慰靈祭的消息逐漸為人所知,現在每年出行都需要40人座的巴士。2018年9月22日舉辦的第43屆慰靈祭,參加的人員從20歲到80歲共有32名。
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    身為日本人的『廣枝大隊長』捨己求全的義行,拯救了台灣眾多年輕人的性命; 而感念廣枝大隊長的台灣人部下們,更是用終身的緬懷行動,紀念著這位將他的黃金人生奉獻給台灣的日本人; 因著與『劉維添』的緣分與對台日「仁義」的羈絆深受感召的『渡邊崇之』接下了這傳承的棒子; 而今日,我們透過了『權田猛資』的分享,聽到了這個很感人的故事。

    每位看到這篇故事而願意按下分享的你,其實都在傳承台日的友誼,我相信這個故事沒有完結篇,因為會有更多更美好的連結從這裡發生…

    by 何宛蓁 Yoko Ho

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